2009年06月23日

新春ワイド時代劇

『新春ワイド時代劇』(しんしゅん-じだいげき)とはテレビ東京が毎年親局のチャンネル数の「12ch」にちなんで同系列で1月2日に放送している正月恒例の特別番組である。

1979年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の開局15周年記念の一環として映画『人間の條件』を12時間に渡り放送したのが始まりとされており、翌1980年も映画『宮本武蔵』を一挙放送した(視聴率は偶然にも12%だったという)。その反響の大きさから、1981年に放送された『それからの武蔵』以降はテレビ東京オリジナルの「12時間超ワイドドラマ」(放送時間も同日の昼12時から深夜12時=24時までの12時間)を放送する様になった。

しかし2001年から放送時間をそれまでの12時間から10時間(箱根駅伝が14時ごろ終了になるのでチャンネルを変えてもらいやすくなると見込みスタート時刻が14時からに変更、終了は今までと同じ24時)に規模を縮小したため「新春ワイド時代劇」(2001年と2002年は21世紀の初頭に因み「新世紀ワイド時代劇」)と改題したが、現在でもテレビ東京系列の正月恒例の特別番組として定着している。

本放送した年の年末の夕方からゴールデンタイムにかけてネットワークぐるみで再放送するのが恒例化している。また平日昼に放送されている時代劇アワーでも1時間に分割・再編集して放送したこともある。

2000年までは6部制だったが、2001年以降4部制、2006年以降は3部制になっており、それぞれにオープニング・エンディングを入れている。中断時間は5?10分で、各局別編成(番組案内・新年の挨拶・ニュース・天気予報など)となっている。

2001年からはBSジャパンでも放送されているが、著作権及び肖像権の問題上地上波で1年前に放送された作品を放送している。BSジャパン開局当初は地上波との同時放送を予定していた。

スポンサーはセブン-イレブンが10数年間担当した後、2001年のマツモトキヨシ、2002年のビックカメラ、2003年から2008年のベルーナ、2009年は化粧品会社のオージオがメインスポンサーを務めている関係で「OZIO新春ワイド時代劇」というタイトルで番宣する事もある。セブン-イレブンがスポンサーだった時は本編放送中に山口良一の進行によるドラマに関する三択式のお年玉クイズ(全12問)があった。

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テレビ東京系以外の地方局でも1時間あるいは2時間単位に分割されて番販される事がある。

また、関西の独立UHF局のうち普段テレビ東京(系)の番組を多数ネットしている局でも全国高等学校サッカー選手権大会等で中断を挟みながらも同時ネットするのが毎年恒例となっている(中断を挟んだ後はディレイネット)。対照的に、東海地方の独立UHF局では毎年ネットされないのが常である(前述の年末再放送は何度かネットしている)。ただし岐阜放送は、地元ゆかりの織田信長が主人公の『国盗り物語』のみはネットした。

放送開始当初はフィルム撮影・モノラル放送(1984年の作品はビデオ撮影)だったが2001年からビデオ(HD-VTR)撮影・ステレオ放送を開始し、また2005年からは字幕放送になった。

2009年06月09日

ワシントン会議における海軍大臣の職務代理

ワシントン会議に出席するために加藤友三郎海軍大臣が訪米した際に、誰が海軍大臣の代理を務めるのかと言う問題が生じた。加藤は内閣官制第9条を根拠として、原敬内閣総理大臣に代理を要請した。

これに対して山梨半造陸軍大臣をはじめ、田中義一前陸相及び元老山縣有朋は、軍部大臣に文官を任命することは軍人勅諭及び帝国憲法の統帥権の解釈からして不適当であること、陸軍省官制および海軍省官制には軍部大臣が現役あるいは予備役の大将・中将と明記され(当時は軍部大臣現役武官制ではない)ていること、また、陸海軍大臣の帷幄上奏には統帥に関わる部分も含まれており、これを文官が代理するのは憲法で保障された統帥権の独立に対する違憲行為であるとして反発した。
あの付く言葉
四字熟語集
夏目漱石集
妊婦さんの豆知識
日本の美術
大好き昆虫
日本の詩歌
長寿祝い
つらい・花粉症
おいしいお菓子
病理学
宇宙船
スノーモービル
心臓病
脚本
腎臓病
光学
陶芸
ボランティア
ブーメラン


これに対して、政府と海軍が陸軍と協議をした結果、内閣官制によって事務行為の代理については文官でも認められること、ただし、帷幄上奏に関する職務は軍令部長が代行すること、陸軍に対しては今回の件を前例とはしないことで、陸軍もこれを受け入れた。なお、大蔵大臣高橋是清によって参謀本部廃止論が唱えられたのもこの内閣のことであった。

だが、この問題以後、立憲政友会内部に陸軍への反発から、帷幄上奏を廃止して陸軍省官制および海軍省官制を再改正を行って、文官の軍部大臣就任を認めさせるべきとの主張が出された。後に政友会の内紛から次期総裁を外部から田中義一を迎え入れた。田中の就任直後の1925年(大正14年)10月4日に政友会の新政策発表の際に「帷幄上奏の廃止と軍部大臣文官制」の一項が入っていることに気付いて[6]、激怒し、直ちに幹部会を招集してこの部分を留保させて以後党内で統帥権の独立に冒す様な政策は掲げない事を宣言したのである。

2009年06月06日

前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した

前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は、3月に入るや否や松井田城攻略に取り掛かった。大道寺政繁は嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に4月20日についに降伏。道案内をすることとなった。その後、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)と上野の各城を開城勧告などで難なく攻め落とした。一方、小田原包囲勢から主に徳川勢から兵力を抽出して北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。玉縄城(4月21日)、江戸城(4月27日)と武蔵の諸城を次々に陥落させると、戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。浅野長政・内藤家長(徳川家臣)らによる下総方面軍は小金城(5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)と次々と落とし、逆に秀吉から浅野に対して敵である房総諸将の不甲斐無さを詰って房総諸城の攻略は戦功として認めないとする書状が送られたほどであったという(5月20日付、「浅野家文書」)。もう一方は河越城を陥落させ、岩付城も5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。この房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落は、各城の兵力のほとんどが小田原城の籠城戦のために引き抜かれたために最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。ある程度の兵士が確保されていた鉢形城や館林城などは攻め倦み、そこでは進撃の速度は大幅に落ちている。

忍城攻めでは、石田三成を大将、長束正家を副将に佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝などの上野・下野の諸将や真田昌幸を先鋒に押し立てて攻め寄せた。しかし、城方も城主成田氏長の正室を中心によく防備し、また湿地の多い地形に三成も戦略をなくし、膠着状態となった。岩槻城を抜いた徳川勢の後詰もあったが、戦況は全く変わらなかった。そこで、湿地が多いことを逆手に取り、水攻めを決行することとなった(一説には、秀吉が繰り広げたパフォーマンスの一環とも言われている。というより、そもそも水攻めは周辺地域に甚大な被害を与えるプロジェクトであり、当時の三成の身分で行動に移せるほど簡単なものではない。さらに、水攻めに批判的な三成自身の証言も残っていることを考慮に入れれば、発案者が彼でないことは明快であろう)。しかし、天候がよすぎて水が干上がり気味だった上に、火矢対策で城方がどんどん水を城に引き入れていたため失敗に終わり、最終的には城方が偶然堤防を切ったことによる出水で三成勢以下が大損害を蒙るという最悪の結末となった。(ただし、この話の出典は江戸期以降の軍記物であり、信憑性はない)この件により、三成は後年「戦下手」というレッテルを貼られてしまったが、三成の戦略が特に拙かったということもなく、運やツキがあまりにも三成に向いていなかったとも言える。忍城攻めは7月に入っても続いた。

6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる(「家忠日記」)。包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と、6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった(それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという)。さらに、包囲中の5月27日には堀秀政が陣没するなど、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。[要出典]一方の後北条側でも外部との連絡が不通になり、士気の低下は避けられなくなった。
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そんな中、後北条側から離反の動きが見えるようになった。氏長は忍城守備を家臣に任せて小田原につめていたが、かねてから親しかった連歌の達人を通じ、里村紹巴を介して豊臣側に内通する内約を取り付けたが、未然に発覚し氏長は素蔵に押し込められる結果となった。また、6月16日に松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことが発覚。政晴一味の計画では忠興、輝政の両軍勢を引き入れる手はずであったが、一味の一人が江雪斎に計画を白状したため、政晴は氏直により成敗され、憲秀も押し込めと相成った。この成敗事件と6月23日に北方隊によって陥落させられた八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条側の士気低下に拍車をかけ、6月26日には石垣山一夜城が完成したことが後北条側に決定的な打撃をもたらした。俗に北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで揉め、一向に結論がでなかった故事から「小田原評定」という言葉が生まれた。

7月に入ると、氏房、氏規がそれぞれ滝川雄利と家康を窓口として和平交渉に当たった。そして7月5日、氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。家康は氏直を雄利、次いで信雄の元まで護送し、秀吉に氏直の降伏を伝えた。

2009年04月22日

デンマーク・ニーダーザクセン戦

1625年5月にデンマーク王クリスチャン4世が、プロテスタント側について参戦した。クリスチャン4世はプロテスタントであり、「白山の戦い」の勝利に自信をつけているカトリックに対抗することが表向きの参戦理由であった。しかし実際のところは、神聖ローマ帝国のニーダーザクセンの区長として、長らく空位になっている2つの帝国内の司教職に自分の息子を就任させる要望を出したところ、皇帝フェルディナント2世に拒絶され、ティリー伯の軍がニーダーザクセンに進駐してきたことが真の理由であった。

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1624年、ハプスブルク家の勢力強化を恐れたフランスのリシュリューがフランスならびにオランダ、イギリス、スウェーデン、デンマークと「対ハプスブルク同盟」を結成し、ハプスブルクとカトリック連合を牽制した。またフランス、サヴォイ、ヴェネツィアがスペインのハプスブルク家への支援ルートを阻んでいた。

これを受け、北ドイツへの勢力拡大とバルト海、北海の覇権確立を狙っていたデンマーク王クリスチャン4世が、息子の司教職就任問題に対するフェルディナント2世の露骨な反発に対し、フランス、英国、スウェーデンの同盟による支援を受けて1625年5月に参戦した。当初はスウェーデンとの共同介入であったが、両者の主導権争いの結果スウェーデンはポーランド問題に注力し、デンマーク単独での介入となった。デンマーク王の参戦に対して英国は資金を提供し、マンスフェルト、ブラウンシュヴァイクの二人の傭兵隊長の軍を援軍として派遣した。

デンマークの参戦を受けたフェルディナント2世は、戦費不足のため窮地に陥っていた。常備軍による応戦が不可能と判断した皇帝は、ボヘミアの傭兵隊長ヴァレンシュタインを登用し、彼の軍隊に新教徒軍と戦うよう依頼する。 一方、デンマーク軍と傭兵部隊の間では戦略についての主導権争いが発生し、ついに3者は別行動を取るようになる。これはヴァレンシュタインの各個撃破の好餌となり、マンスフェルトはデッサウの戦いで敗北、ブラウンシュヴァイクも1626年1月13日に戦死してしまう。さらに1626年、クリスチャン4世はルッターの戦いで、ティリー伯に敗れてしまった。

クリスチャン4世が戦力を失うと、ヴァレンシュタインとティリー伯の軍はデンマークの神聖ローマ帝国におけるポンメルン、メクレンブルクの公爵領ばかりか、ユトランド半島をも蹂躙した。クリスチャン4世はスウェーデンに支援を求め、同盟が成立。からくもヴァレンシュタインをデンマークから退けた。結局1629年に「リューベックの和約」が皇帝との間で成立し、デンマークはひとまず三十年戦争の舞台から退場する。

2009年04月19日

テルモピュライの戦い

テルモピュライの戦い(-たたかい、希語:Μάχη των Θερμοπυλών、英語:Battle of Thermopylae)は、ペルシア戦争における戦いの一つ。紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘である。「テルモピレーの戦い」とも呼ばれる。ヘロドトスの『歴史』(第7巻)に記述される。

海戦(アルテミシオンの海戦)ではギリシア艦隊がペルシア遠征軍に善戦したが、テルモピュライではペルシアの圧倒的な戦力の前にスパルタ軍が敗退した。しかし、スパルタ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い止め、クセルクセスの兄弟を二人戦死させた。これは、スパルタ軍の勇猛さと地形をうまく利用したためと言われている。

ペルシアの侵略に対して対応が混乱していたギリシアの諸都市であったが、ペルシア遠征軍がトラキアへ侵入するに及んで、連合してこれを迎撃することを決した。

先にテンペ峡谷に出兵したギリシア軍は、マケドニア王国のアレクサンドロス1世にペルシア遠征軍の巨大さを説かれてイストモスに撤退していたが、再び会議を開き、ペルシア艦隊をアルテミシオン沖で、クセルクセス本隊をテルモピュライで迎え撃つことを決議した[1]。テルモピュライ・アルテミシオンの防衛線は、アッティカ以北を防衛するための戦略的に極めて重要な意味を持つものだったが、スパルタはカルネイア祭によって全軍を出仕できず、レオニダス王率いる先遣隊300のみを派遣した。他のアルカディアの諸都市もオリンピア祭のために少数の部隊のみを動員し、祭りの終了とともに本隊を派遣することとした[2]。
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

テルマ(現テッサロニキ)を出立したペルシア本隊は、テルモピュライ近郊のトラキスに陣を張った。その兵力規模のあまりの大きさにギリシア軍は恐慌に陥り、スパルタを除くペロポネソスの兵は、イストモスを防衛すべきとして撤退を主張したが、これにポキスとロクリスが強硬に反対した[3]。このためレオニダスはテルモピュライでの決戦を決意し、ギリシア諸都市に使者を送って支援を要請した。

クセルクセスはギリシアの動きを察知していたが、兵力の差からギリシア部隊がまともに戦闘をおこなうとは信じられず、ギリシア部隊が撤退するのを4日間待った。しかし、5日目になってもギリシア軍が撤退する気配を見せなかったため、クセルクセスはメディア軍に攻撃を命じた

2009年04月04日

鉈(なた)

鉈(なた)とは、林業や狩猟などの山林で働く人々の用途に適した刃物の類である。枝打ち、木を削る、雑草を払う、動物を解体するなどの目的で使われる。斧、包丁、鎌、刀剣以外の大型刃物を総称して鉈という場合が多い。

特徴 [編集]
地域や業種によって刃や握把の形状にバリエーションがあるが、基本的には

片手持ちに適する
刀身が厚く丈夫である
刃渡りは10cmから40cm程度
のものを指す。

柄は刃側に対して内側にやや傾けて取り付けられる。重量と刃の厚みを利用して、薪や竹を割ることも出来る。 多くは先端が矩形になっているが、ボウイナイフのように刃先と切っ先をつけた「剣鉈」(つるぎなた、けんなた)というものもある。通常、皮革や木製の鞘にいれて腰から下げて携帯する。

前述のように地域によって形状が異なり、木柄を付けるものもあれば刃と一体になった共柄の物もある。木柄も木の棒に切れ込みを入れ、そこに本体を差込み目釘で固定するものあれば、斧や鍬のように峰に穴(ヒツ)を設けを設けそこに木の棒を差し込むものもある。刃の形状も、斧に似たものや鎌に似たもの、先端部分に突起(「石付」「鼻」等と呼ばれる)を設ける物も多い。 しかし近年では地域毎に存在する鍛冶屋が激減したうえ、刃物の生産地が限られるようになり地域毎のバリエーションは減少しつつある(土佐の製品がよく見られる)

なお、刃が鋭利ではないものもある。小枝を払うような用途では切断力は、刀身の重さを利用して叩き切ることによって発揮されるためである。 また、中には折れた(または故意に折った)日本刀を鉈として再利用している例も存在する。

旧大日本帝国陸軍に於いても斧や鎌、十字鍬(ツルハシ)や円匙(シャベル)等といった道具類と一緒に工兵や他の一般兵科に支給されており(革鞘に刃を収納し軍衣の上に締めている帯革に付けて携行する)、草木を掃う等といった通常の使い方だけでなく、緊急の白兵戦時にはさながら軍刀や銃剣の様に対人戦用の刃物として使われる事もあった。インドシナ戦争では圧倒的武力で攻勢を掛けるフランス軍に対し、火力で劣るベトミンが鉈を持って突貫することが度々あり、フランス軍にとって恐怖の対象であった。ベトナム戦争では、戦場となった密林では硬い植物が多く、柔らかい植物に適したマチェテ(薄刃で熱処理もぞんざいである)では不十分であるとして米軍兵士の中に日本で購入した鉈を使用する者もあり、米軍でも明らかに鉈をモデルにしたようなブッシュナイフを支給している。

相撲用語の鉈 [編集]
相撲に鉈と呼ばれる攻め技がある。片腕の肘を相手の喉に押し付け、もう一方の腕で相手の片腕を外側から抱え込み、片閂(かたかんぬき)に決める技。肘で喉を攻める様が鉈を振るうさまによく似ていることから命名された。上半身の力が必要で、現代の大相撲ではめったに見られない。

ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

2009年03月20日

スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町

スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町はタイにあるユネスコの世界遺産(文化遺産)。タイ政府の歴史公園法により整備された3つの歴史公園が登録されている。

スコータイの町は小タイ族(現在のタイ人の多数派)であるシーインタラーティット王によりスコータイ王朝の都として建設がなされた。この王朝はラームカムヘーン王の時代に大きく発展し、東南アジアの一大国となるがその死後、勢力は衰えアユタヤ王朝が建つ頃には、小国になり、アユタヤ王朝の属国の時代を経てアユタヤに吸収された。

スコータイ王朝には数々の主要都市があり、このうちの幾つかが廃墟になりながらも現存している。それらの中には、スコータイ同様に世界遺産登録されているものがある(#登録された歴史公園の一覧参照)。


登録経緯 [編集]
80年代始めにスコータイと関連する歴史公園3つが相次いでタイの文部省に登録された。その後文部省はこの遺跡をユネスコに推薦し、1991年に世界遺産(文化遺産)に登録された。

チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

登録基準 [編集]
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
これに対して国際記念物遺跡会議は以下の趣旨の理由を付けた。スコータイに関しては小タイ族(シャム人)による最初の芸術の傑作である(1)。スコータイと関連遺跡は小タイ族最初の芸術であり、タイ最初のタイ族による文化である

2009年03月05日

ノアの方舟に乗らないユニコーン

ユニコーンは飼い馴らしのきかない、たいへん凶暴な、無敵の、それゆえに自らの力を過信する傲慢な野獣だった。ユダヤ神話系の話が残る東欧の民話には抑制の効かない高慢な性格のユニコーンが出てくる。その一つのポーランド民話ではユニコーンは大洪水以前の動物とされている。

ノアがあらゆる獣のつがいを方舟に入れた時、ユニコーンもまた受け入れた。ところがユニコーンは他の獣を見境もなく突いたので、ノアは躊躇なくユニコーンを水の中に投げ込んだ。だから今ではユニコーンはいない。--『ポーランド民話』

小ロシア民話でもユニコーンはこれと似たようなことをしている。自らの傲慢さのために自滅してしまうのである。

ノアが全ての獣を方舟に受け入れた時、獣達はノアに服従した。ユニコーンだけがそうしなかった。ユニコーンは自らの力を信じ、「私は泳いでみせる」と言った。四十の昼と夜の間、雨が降った。鍋の中のように水は煮え立ち、あらゆる高みが水に覆われた。そして方舟の舷側にしがみついていた鳥達は、方舟が傾くと沈んでしまうのであった。しかし、かのユニコーンは泳ぎに泳いでいた。だが鳥達がユニコーンの角に止まったとき、ユニコーンは水中に没してしまった。だからユニコーンは今日ではもう存在しないのだ。--『小ロシア民話』

1576年に印刷された絵入り聖書にトビーアス・シュティマー(Tobias Stimmer, 1539-1584)が描いた木版画には、ユニコーンのつがいがその高慢さから、方舟に背を向けて、あとに残る様子が描かれている

ユニコーンのヨーロッパ伝承の三つ目の経路は、初期のキリスト教徒達の教本となった『フィシオロゴス』(Φυσιολόγος, 「自然を知る者、博物学者」)と呼ばれる博物誌である。この書は、動物(空想上の動物を含む)、植物、鉱物を紹介して宗教上、道徳上の教訓が、旧約聖書、新約聖書からの引用によって表現されているものであり、のちの中世ヨーロッパで広く読まれる動物寓意譚の原典になったと言われるものである。原本はギリシア語で書かれ、各章には、まず聖書の言葉が述べられ、その後にその生き物についての自然科学的な解説が続き、最後には道徳的な教えが述べられている。その第22章では以下のように書かれている。

詩篇作家(ダヴィデ)は言う。「主は私の角をモノケロス(一角獣)の角のように高く上げられる(『詩篇』第92章第10節)」と。フィシオロゴス(博物学者)はモノケロスが次のような性質を持つと言う。モノケロスは小さな獣で雄ヤギぐらいだが、途方もない勇気の持ち主であり、非常に力強いため、狩人も近づくことが出来ない。それは頭の真ん中に一本の角を持っている。 さてどうしたらこれを捕まえられるだろうか。美しく装った汚れのない処女を近くに連れて来ると、それは彼女の膝に飛び乗って来る。そこで彼女はそれを飼い馴らし、王達の宮殿へ連れて行くのである。 この生き物は、わが救世主の姿に引き写すことが出来る。なぜか。私達の父の角がダヴィデの家から蘇り、救いの角となられた(『ルカによる福音書』第1章第69節)。天使の力ずくでは、彼を打ち負かすことは出来なかった(『ペテロの手紙一』第3章第22節)。彼は真実かつ純潔な処女マリアの胎内に宿った(キリストの受肉)。言葉は肉となり、私達の内に宿ったのである(『ヨハネによる福音書』第1章第14節)。--『フィシオロゴス』第22章

『フィシオロゴス』に載っているユニコーンの姿は古典文学の作家達が言うようなものと全く異なり、ウマでもロバでもなく、メガステネスの言うゾウの肢も持っていない。さらに、ユニコーンは処女によってのみ捕まえることが出来るという伝説も生まれた。この伝説の起源は、紀元前2000年頃に古代オリエントで成立したと言われる『ギルガメシュ叙事詩』にあると考えられている。ここに出て来る半獣半人のエンキドゥには一本の角は生えていないが、物語の構造は処女がユニコーンを誘惑する話とよく似ている。エンキドゥは、ウルクの王ギルガメシュの暴虐を鎮めるために神々の命により、女神アヌンナキによって土から作られた。しかし作られたばかりのエンキドゥは、獣達とともに暮らしてばかりいたため、宮仕えの遊女、つまり神聖娼婦が派遣され、彼を誘惑し、六日と七晩の間交わい合い、獣達から引き離し、本来の目的地、王都ウルクへと連れていく。そこでギルガメシュとエンキドゥは激しく戦うが、やがて和解し両者は盟友となる。

この形式の神話はその後、インドへと伝わり、変形され、4世紀のサンスクリット文学の『マハーバーラタ』第3巻第110-113章に出て来るリシュヤシュリンガ(????????, 「鹿の角を持つ者」)の説話の形式をとる。梵仙ヴィヴァーンダカが湖畔で修行をしていると天女ウルヴァシーが舞い降りて来た。ヴィヴァーンダカは彼女の美しさに見とれて思わず精を漏らしてしまった。ところがそばで水を飲んでいた牝鹿がこれを一緒に飲み込んでしまい、やがて一人の息子を生んだ。この息子は人間の姿をしていたが、額の中央に一本の角が生えていた。それゆえ彼は「リシュヤシュリンガ」と呼ばれた。彼は父の他は人間を目にすることなく、修行を積んだ。さてこの頃、アンガ国は12年間に及ぶ大旱魃に苦しんでいた。ある時アンガ国王ローマパーダの夢枕にインドラ神が立ち、リシュヤシュリンガを王都に連れて来れば旱魃は止むであろうと告げる。そこで王は大仙のもとへ遊女(または王女)を派遣する。女性達は父以外の人間を見たことのないリシュヤシュリンガをまんまと誘惑し、王都に連れて来る。大仙が王都に足を踏み入れるや大雨が降り、旱魃は解消する。このリシュヤシュリンガの遊女による誘惑と災厄の解消が西へ伝わり、ユニコーンの処女による捕獲、角による解毒と形を変え、『フィシオロゴス』からヨーロッパに伝わっていった。

聖バシリウス(330頃-379)が書いたと言われている後代の『フィシオロゴス』には、『詩篇』第22章第21節の中でダヴィデがユニコーンからの魂の救いを祈っている詩篇について次のように述べている。「一角獣は人間に対して悪意を抱いている。一角獣は人間を追いかけ、人間に追いつくや、その角で人間を突き刺し、食べてしまうのである……よいか、人間よ、汝は一角獣から、すなわち悪魔から身を守らねばならぬ。なぜなら、悪魔は人間に悪意を持ち、人間に邪悪なることをなすためにこそ送られて来たのだから。昼も夜も悪魔はうろつきまわり、その詭弁で人間を貫き通しては、神の掟から人間を引き離すのだ」このようにユニコーンは救世主の象徴であると同時にその敵対者の悪魔の象徴でもあった。中世ではこのような「両義性」というのは珍しいことではなかった。バシリウスの『フィシオロゴス』にはゾウとユニコーンの友情の話も載っている。「ゾウには関節がないので、木に寄り掛かって眠る習性を持つ。そこで狩人達がその木に切り込みを入れておくと、ゾウは大きなうなり声をあげながら木とともにひっくり返る(カエサルの著作『ガリア戦記』第6巻第27節では関節のないヘラジカが同じように狩られる)。隠れていた場所から狩人達が急ぎやって来て、無防備に横たわるゾウの顎から象牙を引っこ抜き、急いで逃げてしまう。それは狩人達がユニコーンに急襲され、その餌食とならないようにするためである。しかしユニコーンの到着が間に合えば、ユニコーンは倒れたゾウの傍らに跪き、その体の下に角を差し入れ、ゾウを立たせるのである」ここでもまたユニコーンは救世主の象徴となっている。つまり「われらが主イエス・キリストは王者の角として表されている。われらすべての者の王は人間が倒れているのを、そしてその人間が慈悲に値するのをご覧になると、そこへやって来られ、その者を抱き起こすのである」この『フィシオロゴス』はアレゴリーに重点を置きユニコーン自体ではなく、その性質からたとえられている。「ユニコーンは良き性質と悪しき性質を持っている。良き性質はキリストおよび聖人にたとえられ、悪しき性質は悪魔や悪しき人間にたとえられる」
キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ

ユニコーンに関する話を載せた『フィシオロゴス』の断片はもう一つある。「ある地方に大きな湖があって、野の獣達が水を飲もうと集まる。しかし動物達が集まる前に、ヘビが這い寄って来て、水に毒を吐く。動物達は毒を感じると、もう飲もうとしない。彼らはユニコーンを待っているのである。そしてそれはやって来る。ユニコーンは真っ直ぐ水の中まで入る。そうして角で十字を切ると、もう毒の力は消え失せて、彼は水を飲む。他の動物達もみんな飲む」ギリシア人達がインドから聞き伝えた角の解毒作用が再び登場している。

2009年02月13日

こいびとどうしですることぜんぶ

主人公・遠藤陽介は、ある日、ヒロイン・園生玖羽に告白し、最高の形で報われる。

学園至上最高の秀才である玖羽。だが、人付き合いの苦手な彼女。
マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

主人公とともに、一つずつ、手探りで覚えていくのだが……。

陽介と航路の声はドラマCD「こいびとどうしですることぜんぶ・アンコール」のもの。本編には男性キャラの音声はない。

できたてカップル
遠藤 陽介(えんどう ようすけ)- 声:P助
主人公。玖羽に告白した張本人。至って普通の男の子だが一人で思考することが多く暴走しやすい。
足は早いほう。一年の時の体育祭で、一番手二番手が倒れ、男女混合二人三脚で玖羽と走れるチャンスが陽介に回ってくる。
生活力は玖羽以上で、同棲した後は玖羽にいろいろ生活の知恵を教える。
教師陣含む全クラスメイトは「遠藤(君)」、春一郎(後述)からは「虫くん」と呼ばれ、結婚後は玖羽から「陽介」、クラスメイトからは「遠藤夫」と呼ばれるようになる。
園生 玖羽(そのお くう)- 声:如月葵
身長151cm B98/W58/H84 
陽介から告白を受けた抜群の美貌とスタイルを持ち、学園史上最高の秀才。日記を書く習慣がある。
完璧な才色兼備ぶりのため周囲から一目置かれ、男子からは「高嶺の花」扱いされている。
しかし、生活力はほぼ皆無で、バイトや家事など勉学以外には陽介やつかさたち友人を頼る事が多く、同棲した後はみんなからいろいろ生活の知恵を教えて貰い、機械音痴もこれで克服する。秀才と呼ばれるだけあって理論的な説明なら理解が早い反面、大雑把に感覚でされる説明には弱い。
人付き合いが苦手でいつも無表情だが、遠藤と付き合ううちに少しずつ柔らかい表情を見せ、周囲とも打ち解けていく。
つかさからは「くーりん」(後によしこはんと室井っちゃんからもそう呼ばれ、製作サイドの公称にもなる)陽介含むクラスメイトからは「園生(さん)」と呼ばれ、結婚後は陽介からは「玖羽」、クラスメイトからは「遠藤嫁」、教師陣からは結婚後の苗字、「遠藤さん」と呼ばれるようになる。
重要人物
世良 つかさ(せら つかさ) - 声:金田まひる
身長162cm B80/W58/H82 
主人公の悪友。主人公と玖羽を見守る一人。「くーりん」の名付け親。くーりん好きっ娘。
実は不動産会社のお嬢様だが定食屋の娘のノリ。
玖羽からは「つかさちゃん」、陽介を始めとするクラスメイトからは「世良」、チカからは「つかちー」と呼ばれる。
羽合 航路(はわい こうじ)- 声:小次狼
主人公の悪友。苗字が「羽合」であることから、両親からハワイの英才教育を受けている。
本人はそんな両親に呆れているが、時々無性にロコモコやパイナップルを食べたくなるなど、その教育は確実に身に沁みこんでいるらしい。また、両親のハワイ料理メインな食生活のせいで炊事能力は高く、玖羽の料理の先生となった事がある。
その所為で苗字が禁句らしいのかクラスメイト誰一人として「羽合」と苗字を呼ばず、「航路」と、名前を呼ぶ。しかし、玖羽やその父親、園生春一郎(後述)は天然なのか「ハワイ君」と、思いっきり地雷を踏む。
等々力 チカ(とどろき ちか) - 声:桜川未央
身長155cm B83/W59/H87 
主人公たちの担任。女教師という雰囲気はまったくなく、むしろ子供っぽい(自分でも学生のノリと言っている)。
実は陽介のことが好きなのか色目を使ってくる。つかさとは長い付き合いで、歳の離れた友達同士(つかさ 談)。
世良不動産の店子で、住んでいる所がいい条件なのか、追出しをネタにつかさから同棲の事実を口止めされている。しかし、内心では本人も陽介たちの交際を応援している。
陽介たちからは「チカ先生」と呼ばれるがつかさからは「チカぽん」「トドちゃん」と呼ばれる。
実は苗字が嫌いで、つかさに「トドちゃん」と言われると「トドちゃんって言うな!」とキレる。
園生 春一郎(そのお しゅんいちろう)
陽介の仕事先である研究所の主任。キャラ名は主任(しゅにん)。玖羽の父親。
飽くまでマイペースで、娘の玖羽に対してもやや無関心なきらいがある。大のコーヒー好きだが陽介に唐辛子を擦ったものを出そうとするなど実はアブない人。
口癖は「○○だよ、それはもうね!」。時々、奥さんであり、発明会社の経営者である理伊と一緒に仕事をする。
音声は無いものの、濃いキャラの為目立っている。天然。
園生 理伊(そのお りい)
某発明会社の社長。玖羽の母親。
玖羽の天然さは父親譲りだが聡明さと雰囲気は母親譲り。その容姿は立ち絵に出ていないが陽介曰く
[パリッっとスーツ着込んだクール系キャリアウーマン風の美人で見た目からして周りとは違うオーラを纏っている]らしい。
ドラマCDのサイドBではナレーターもしている。
クラスメイト
高松 美子(たかまつ よしこ)- 声:緒田マリ
クラスメイトで名前と声がある人その1。キャラ名はよしこはん。音声はあるものの顔のグラフィックはない。
徹頭徹尾家庭菜園キャラで、本編では肥料の安売りのため、玖羽に掃除当番を代わってもらう。
同棲を始めた陽介と玖羽に胡瓜とプチトマトの苗木を与える。ただ、二学期末まで同棲の事情は知らない。
ドラマCDでは玖羽の制服の(コート?)第二ボタンをつかさと室井っちゃん(後述)とで取り合おうとしていたらしい。
クラスメイトのキャラ位置ながら本名が判っているのは、よしこはんだけである。
つかさからは「よち子」、それ以外からは「よしこはん」と呼ばれる。ただ、一学期内は玖羽から苗字で呼ばれる。
室井っちゃん(むろいっちゃん) - 声:緒田マリ
クラスメイトで名前と声がある人その2。キャラ名を見てお解かりの通り、苗字のみしか出ていない。
音声はあるものの顔のグラフィックはない。よしこはんと室井っちゃんは二人で一組であることが多い。
基本、賑やか師。文化祭でもケーキを作る、と言い出すほどの甘いもの好き。
よしこはんと同じく、二学期末まで同棲の事情は知らない。
ドラマCDでは玖羽の制服の(コート?)第二ボタンをつかさと、よしこはん(先述)とで取り合おうとしていたらしい。
渡辺 (わたなべ)
前年度と同じく陽介と玖羽のクラスメイト。足は陽介よりも早い。
男子クラスメイト軍勢中、航路以外唯一の名前ありキャラなのだが声と顔グラフィックが無い。
更に一年の時の体育祭で男女混合二人三脚で玖羽と出場予定が急な腹痛で玖羽と一緒に走り損ねた一番可哀想な人。

2009年01月27日

旧ボリーバル派は排除され、商業資本家

独立後、旧ボリーバル派は排除され、商業資本家が支持する保守党による支配が続いたが、1840年に大土地所有者を支持基盤とする自由党が結成された。保守党が中央集権を唱え、自由党が連邦制を叫び、両者は対立し、ついに1858年、連邦戦争(内戦)が勃発した。内戦は1863年に連邦主義者の勝利のうちに終結。自由党が政権を担うことになった。しかし、自由党は失政を重ね、1870年に保守系のアントニオ・グスマン・ブランコが政権を握った。ブランコは18年間を独裁者として統治し、この時期に鉄道の建設、コーヒーモノカルチャー経済の形成、国家の世俗化などが進んだが、1888年のパリ外遊中にクーデターにより失脚する

グスマンの失脚後、ベネズエラは再び不安定な状態に陥るが、1899年にはアンデスのタチラ州出身のシプリアーノ・カストロが政権に就き、1908年まで独裁を行った。1908年にカストロの腹心、フアン・ビセンテ・ゴメスがクーデターを起こすと、以降1935年までのゴメス将軍の軍事独裁政権が続くが、この間の1914年にマラカイボで世界最大級の油田が発見され、ベネスエラは一気に貧しい農業国から石油収入のみを基盤にした南米の地域先進国となっていった。しかし、ゴメス将軍は「アンデスの暴君」と呼ばれるほどの苛烈な統治を敷き、「1928年の世代」を中心とする国内の自由主義者の反発が強まることになる。

1935年にゴメスは死去したが、死後もゴメス派の軍人により軍政が継続された。軍政は労働者への懐柔を行ったが、1945年10月には青年将校と民主行動党(AD)によるクーデターが起こり、この十月革命により軍政は崩壊した。1947年には新憲法が発布され、1948年2月の選挙により国民的文学者のロムロ・ガジェーゴス政権が誕生するが、ガジェーゴス政権も軍事クーデターによって打倒された。その後1952年からペレス・ヒネメス将軍による独裁が続いたが、ヒメネスは1958年にゼネストで失脚することになる。

1959年には民主的な選挙の結果、民主行動党のロムロ・ベタンクールが大統領に就任した。農地改革や1960年に設立された石油輸出国機構への加盟を行う一方で、反共政策の下キューバ敵視政策を行ったが、これに反発して折から起きていたキューバ革命に影響を受け、キューバに直接支援された左翼ゲリラが山岳部で蜂起した。ベタンクール大統領は左翼勢力と戦うも鎮圧することは出来ず、1964年に退陣した。ベタンクール政権はベネズエラ史上初の民主的に選ばれ、任期を全うすることが出来た政権となった。

1969年、ゲリラへの恩赦を公約にキリスト教社会党(コペイ党)のラファエル・カルデラ政権が発足。反乱は治まり、キューバを始めとする東側諸国との関係改善も行われた。続いて1974年には民主行動党のカルロス・アンドレス・ペレス政権が成立。オイルショックの影響による原油高によりベネズエラは大いに潤い、ラテンアメリカの指導的な地位を確立しようと努めて中南米経済機構の設立にも尽力した
しかし、1980年代を通して貧富の格差と累積債務が増大し、1989年には低所得者層によりカラカス暴動(カラカソ)が発生した。この暴動で非武装の群集に対して軍が発砲し、多くの犠牲者を出すなど世情不安が続き、1992年には空挺部隊のウーゴ・チャベス中佐は政治改革を求めての二度のクーデター未遂事件が起こし、翌1993年不正蓄財によりペレス大統領が辞任。再びコペイからカルデラが大統領に就任した。しかし、ポプリスモ政策を取ろうとしたカルデラの貧困層、中間層への対策は失敗に終わった。
フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール

1999年に「第五共和国運動」から、1992年のクーデターの首謀者、ウーゴ・チャベスが大統領に就任し、反米とポプリスモとボリーバル主義を掲げたチャベスにより、同年12月には国名が「ベネズエラ・ボリバル」共和国に改称された。

2002年にチャベスはCIAの援助の下に計画されたとされる軍部親米派のクーデターで一度失脚するが、全国的なデモの激化とラテンアメリカ諸国の抗議によってクーデターは3日で失敗し、チャベスは再び政権に復帰した。

政治
大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。1999年12月に新憲法が制定され、大統領の権限が強化、任期も5年から6年に延長された。選出は、国民による普通選挙によって行われる。前回投票は、2006年12月3日に行われ、現職大統領が再選。大統領自身が行政府の長として内閣を統率する。

議会はスペイン語でAsamblea Nacional(アサンブレア・ナシオナル、すなわち国民議会)と呼ばれ、1999年憲法により両院制から一院制に変わった。全165議席で、うち3議席は先住民に保障されている。議員の任期は5年で、国民による普通選挙で選出される。現行憲法は1999年憲法。2007年に改憲を巡る国民投票が行われたが、否決された。

かつて「ラテンアメリカには独裁か無政府状態しかないのではないだろうか」とシモン・ボリーバルが危惧したように、ベネスエラでは1830年から1955年まで一世紀以上に渡り、カウディージョや軍人による専制政治と内戦が続いた。クーデターが起こりやすい国でもあり、一時期ほどの頻度ではないものの、近年では1992年と2002年のクーデター未遂事件が起こっている。ロムロ・ベタンクール以降、石油収入を背景にベネデモクラシアと呼ばれた民主化が富裕層と中間層を主体にして進み、1941年に成立した国民行動党と、1946年に国民主義行動党が改編されたキリスト教社会党(COPEI)との二大政党制が確立したが、民主化の中でも埋まらなかった経済的な格差を背景に、貧困層に対してポプリスモ的な政策に訴えたウーゴ・チャベス元中佐が1999年に当選した。

1999年に発足したウーゴ・チャベス政権は、内政では保健と教育を最重要視する政策をとっている。低所得層が住む地区での無料診療所の開設、学校の建設、非識字者や学校中退者のための補習プログラムなどがその例である。貧困層重視の政策は、強引な政治手法とあいまって、富裕層、中産階級、以前の有力政党と結ぶ労働組合から強い反発を受けた。2002年4月にはチャベスのやり方に反発する富裕層や軍部が、CIAの協力の下にクーデターを起こす。チャベス大統領は一時身を隠し、反対派による代わりの政権が樹立するが、大衆の大規模デモと軍内部の反乱によって数日後政権を取り戻す。12月から翌2003年2月にかけては石油産業でチャベス辞任を求めるストライキが起こり、ベネズエラ経済は大打撃を受けた。スト終結後1年間は経済後退が著しかったが、続く2004年には原油価格上昇もあいまって経済が急速に回復し、政権支持率もそれにともなって上昇した。そして8月15日に大統領リコールの国民投票が58%対42%で否決されると、政情は一応の安定をみた。しかし野党は国民投票と以後の選挙結果を認めず、2005年12月の議会選挙では主要野党が選挙をボイコットした。このため現議会は与党と与党寄りの政党によって全議席が占められている。2006年12月3日の大統領選挙でチャベスは63%の得票で3度目の当選を果たし、今度は野党候補も結果を承認した。チャベス大統領は2021年までの大統領在任を仄めかしている。

2007年12月2日実施の社会主義体制への移行と、大統領再選制限の撤廃や大統領権限の強化を定める憲法改正の国民投票で、ベネズエラ中央選管は、反対票が約51%と賛成票をわずかに上回り、否決されたと暫定結果を発表した。