独立後、旧ボリーバル派は排除され、商業資本家が支持する保守党による支配が続いたが、1840年に大土地所有者を支持基盤とする自由党が結成された。保守党が中央集権を唱え、自由党が連邦制を叫び、両者は対立し、ついに1858年、連邦戦争(内戦)が勃発した。内戦は1863年に連邦主義者の勝利のうちに終結。自由党が政権を担うことになった。しかし、自由党は失政を重ね、1870年に保守系のアントニオ・グスマン・ブランコが政権を握った。ブランコは18年間を独裁者として統治し、この時期に鉄道の建設、コーヒーモノカルチャー経済の形成、国家の世俗化などが進んだが、1888年のパリ外遊中にクーデターにより失脚する
グスマンの失脚後、ベネズエラは再び不安定な状態に陥るが、1899年にはアンデスのタチラ州出身のシプリアーノ・カストロが政権に就き、1908年まで独裁を行った。1908年にカストロの腹心、フアン・ビセンテ・ゴメスがクーデターを起こすと、以降1935年までのゴメス将軍の軍事独裁政権が続くが、この間の1914年にマラカイボで世界最大級の油田が発見され、ベネスエラは一気に貧しい農業国から石油収入のみを基盤にした南米の地域先進国となっていった。しかし、ゴメス将軍は「アンデスの暴君」と呼ばれるほどの苛烈な統治を敷き、「1928年の世代」を中心とする国内の自由主義者の反発が強まることになる。
1935年にゴメスは死去したが、死後もゴメス派の軍人により軍政が継続された。軍政は労働者への懐柔を行ったが、1945年10月には青年将校と民主行動党(AD)によるクーデターが起こり、この十月革命により軍政は崩壊した。1947年には新憲法が発布され、1948年2月の選挙により国民的文学者のロムロ・ガジェーゴス政権が誕生するが、ガジェーゴス政権も軍事クーデターによって打倒された。その後1952年からペレス・ヒネメス将軍による独裁が続いたが、ヒメネスは1958年にゼネストで失脚することになる。
1959年には民主的な選挙の結果、民主行動党のロムロ・ベタンクールが大統領に就任した。農地改革や1960年に設立された石油輸出国機構への加盟を行う一方で、反共政策の下キューバ敵視政策を行ったが、これに反発して折から起きていたキューバ革命に影響を受け、キューバに直接支援された左翼ゲリラが山岳部で蜂起した。ベタンクール大統領は左翼勢力と戦うも鎮圧することは出来ず、1964年に退陣した。ベタンクール政権はベネズエラ史上初の民主的に選ばれ、任期を全うすることが出来た政権となった。
1969年、ゲリラへの恩赦を公約にキリスト教社会党(コペイ党)のラファエル・カルデラ政権が発足。反乱は治まり、キューバを始めとする東側諸国との関係改善も行われた。続いて1974年には民主行動党のカルロス・アンドレス・ペレス政権が成立。オイルショックの影響による原油高によりベネズエラは大いに潤い、ラテンアメリカの指導的な地位を確立しようと努めて中南米経済機構の設立にも尽力した
しかし、1980年代を通して貧富の格差と累積債務が増大し、1989年には低所得者層によりカラカス暴動(カラカソ)が発生した。この暴動で非武装の群集に対して軍が発砲し、多くの犠牲者を出すなど世情不安が続き、1992年には空挺部隊のウーゴ・チャベス中佐は政治改革を求めての二度のクーデター未遂事件が起こし、翌1993年不正蓄財によりペレス大統領が辞任。再びコペイからカルデラが大統領に就任した。しかし、ポプリスモ政策を取ろうとしたカルデラの貧困層、中間層への対策は失敗に終わった。
フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール
1999年に「第五共和国運動」から、1992年のクーデターの首謀者、ウーゴ・チャベスが大統領に就任し、反米とポプリスモとボリーバル主義を掲げたチャベスにより、同年12月には国名が「ベネズエラ・ボリバル」共和国に改称された。
2002年にチャベスはCIAの援助の下に計画されたとされる軍部親米派のクーデターで一度失脚するが、全国的なデモの激化とラテンアメリカ諸国の抗議によってクーデターは3日で失敗し、チャベスは再び政権に復帰した。
政治
大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。1999年12月に新憲法が制定され、大統領の権限が強化、任期も5年から6年に延長された。選出は、国民による普通選挙によって行われる。前回投票は、2006年12月3日に行われ、現職大統領が再選。大統領自身が行政府の長として内閣を統率する。
議会はスペイン語でAsamblea Nacional(アサンブレア・ナシオナル、すなわち国民議会)と呼ばれ、1999年憲法により両院制から一院制に変わった。全165議席で、うち3議席は先住民に保障されている。議員の任期は5年で、国民による普通選挙で選出される。現行憲法は1999年憲法。2007年に改憲を巡る国民投票が行われたが、否決された。
かつて「ラテンアメリカには独裁か無政府状態しかないのではないだろうか」とシモン・ボリーバルが危惧したように、ベネスエラでは1830年から1955年まで一世紀以上に渡り、カウディージョや軍人による専制政治と内戦が続いた。クーデターが起こりやすい国でもあり、一時期ほどの頻度ではないものの、近年では1992年と2002年のクーデター未遂事件が起こっている。ロムロ・ベタンクール以降、石油収入を背景にベネデモクラシアと呼ばれた民主化が富裕層と中間層を主体にして進み、1941年に成立した国民行動党と、1946年に国民主義行動党が改編されたキリスト教社会党(COPEI)との二大政党制が確立したが、民主化の中でも埋まらなかった経済的な格差を背景に、貧困層に対してポプリスモ的な政策に訴えたウーゴ・チャベス元中佐が1999年に当選した。
1999年に発足したウーゴ・チャベス政権は、内政では保健と教育を最重要視する政策をとっている。低所得層が住む地区での無料診療所の開設、学校の建設、非識字者や学校中退者のための補習プログラムなどがその例である。貧困層重視の政策は、強引な政治手法とあいまって、富裕層、中産階級、以前の有力政党と結ぶ労働組合から強い反発を受けた。2002年4月にはチャベスのやり方に反発する富裕層や軍部が、CIAの協力の下にクーデターを起こす。チャベス大統領は一時身を隠し、反対派による代わりの政権が樹立するが、大衆の大規模デモと軍内部の反乱によって数日後政権を取り戻す。12月から翌2003年2月にかけては石油産業でチャベス辞任を求めるストライキが起こり、ベネズエラ経済は大打撃を受けた。スト終結後1年間は経済後退が著しかったが、続く2004年には原油価格上昇もあいまって経済が急速に回復し、政権支持率もそれにともなって上昇した。そして8月15日に大統領リコールの国民投票が58%対42%で否決されると、政情は一応の安定をみた。しかし野党は国民投票と以後の選挙結果を認めず、2005年12月の議会選挙では主要野党が選挙をボイコットした。このため現議会は与党と与党寄りの政党によって全議席が占められている。2006年12月3日の大統領選挙でチャベスは63%の得票で3度目の当選を果たし、今度は野党候補も結果を承認した。チャベス大統領は2021年までの大統領在任を仄めかしている。
2007年12月2日実施の社会主義体制への移行と、大統領再選制限の撤廃や大統領権限の強化を定める憲法改正の国民投票で、ベネズエラ中央選管は、反対票が約51%と賛成票をわずかに上回り、否決されたと暫定結果を発表した。